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【ネタバレ】映画『レヴェナント』を徹底解説!アレハンド・ロゴンザレス・イニャリトゥが一貫して描き続けているテーマとは…?あと、脱SNS生活のススメ。

批評・感想

ヒューグラスは地獄から生還した。かけがえの無い息子を殺したフィッツジェラルドに復讐を果たすため。

 

今作『レヴェナント:蘇りし者』の主人公ヒューグラスを演じるのは、アカデミー賞を獲るためには何をするかわからない男、ディカプリオだ!

 

 

 
撮影秘話を聞くと、もはやディカプリオはいくところまでいっている。これでアカデミー賞を獲らなければ、次はヒースレジャーのように役に入り込んで死んでいたかもしれない・・・。本当によかった。
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 

あらすじ

アメリカ西部の原野、ハンターのヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は狩猟の最中に熊の襲撃を受けて瀕死(ひんし)の重傷を負うが、同行していた仲間のジョン・フィッツジェラルドトム・ハーディ)に置き去りにされてしまう。かろうじて死のふちから生還したグラスは、自分を見捨てたフィッツジェラルドにリベンジを果たすべく、大自然の猛威に立ち向かいながらおよそ300キロに及ぶ過酷な道のりを突き進んでいく。(yahoo映画より)

 
 

ヒュー・グラスは命を放棄した。

印象的なシーンがある。主人公のヒューグラスが殺された息子の死体と寄り添うシーンだ。ヒューは生き埋めにされた土の中から這い上がり、少し離れた息子のいる場所へ向かう。熊との乱闘によって喉は裂かれ、足は折れ、内臓はどうなっているか分からない。全く機能しない身体を腕一本で引っ張るが、動くたびに激痛が全身を走る。ディカプリオの怪演も相まって、その痛みは我々の想像を遥かに超える。とにかく痛い。それでも彼は雪道を這い、文字通り”死に物狂い”で息子の近くに辿り着く。

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しかし、そこにあるのは息を失い、雪に埋もれた息子の姿。ヒューは声にならない声を上げる。唯一の心の支えであった息子を殺された。ヒューは殺される瞬間をただ見ていることしかできず、目の前で再会した息子は既にもぬけの殻だ。彼の心境はどんなに苦しいだろう。悲しみに暮れながら腕一本で最低限の供養を施し、顔を近づけ、頬を寄せるヒューグラス。もはや瀕死状態の彼は、息子と寄り添ったまま、目を閉じる。
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この場面で彼はもう死んでもいいと思ったはずだ。目を閉じたのは、眠りたかった訳でもなく、気を失った訳でもなく、もうどうにでもなれ!と自分の生に対する執着を放棄したからだろう。かけがえの無い息子の死は自分の「存在価値」の喪失でもある。なぜなら、彼は息子の為に生き、息子は彼の為に生きていたからだ。ただでさえ死にかけているのに、もう存在価値を見出す息子もいない。全てに脱力したヒューはその場で目を閉じた。彼は、自分が生きるか死ぬかの決断を神に委ねたのだ。
 
 
 
しかし神は彼を死なせなかった。しばらくして彼の目が開いたのだ。ヒューは「なぜ自分は死ねなかったのか?」「なぜ神は自分を生かすのか?」と自問し、その答えを見つけ出す。それは息子を殺したフィッツジェラルドへの「復讐」である。彼は再び地を這い、復讐の岐路へ向かうのだ!
 
(それにしても、この場面におけるディカプリオの演技がすごい。主人公が生きる意味を自問し答えを見つけ出す一連の感情の流れを、ものの数秒で、しかも表情だけで伝えるのだ!さすがアカデミー賞主演男優賞!)
 
 

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神によって生かされた男、ヒューグラスは、一度喪失した自分の存在価値を「復讐」に見いだすことで生きながらえる。
 
 
 
 

バードマンに通ずる人間の「存在価値」について。

 

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監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは前作の『バードマン』も「存在価値」に関する映画であった。マイケルキートン演じる主人公のリーガン・トムソンにおける「存在価値」は、評論家や娘のエマストーンなどから評価そのものだ。彼にとっては他人の評価=自分の価値である。しかし、彼の現状は役者としても父親としても自分の存在価値がゼロに近くなっていた。そんな状況を一発逆転するために、難解な舞台を企画し、自分の存在価値=評価を高めようとする。
 
 
『バードマン』はコメディ作品である。他人の評価でしか自分の価値を見いだせない現代人をシニカルなブラックコメディとして描いているのだ。劇中でマイケルキートンの娘役のエマストーンがこんな台詞を言う。
 
 

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「パパがこの芝居をやるのは、世間にとって重要な存在になりたいからでしょ。何様のつもり? ブログを嫌って、ツイッターをバカにして、フェイスブックも持ってない。それじゃ存在しないも同じよ。死ぬときに私たちに覚えてもらいたいんでしょ。でもね、あんたなんかどうでもいいわ」
 
 
笑えるような笑えないような…。これは「マイケルキートンもエマストーンも本質的には言っていることは変わらないのに、血相を変えてぶつかり合う二人」というドぎついギャグだ。つまりブログ、ツイッターフェイスブックなども、「フォロワー」や「いいね!」など、他人の評価にその者の価値を委ねている点においてマイケルキートンと同じである。
 
 

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マイケルキートンしかり、エマストーンしかり、バードマンは「存在価値」を外在化させ、他人の評価でしか「存在価値」を見いだせない現代人を皮肉った映画である。
 
 
 
 

ヒュー・グラスの「存在価値」とは?

では『レヴェナント』を通じてイニャリトゥは人の「存在価値」をどう描いているだろうか。
 
ヒューグラスは「息子」というある種外在化させた「存在価値」を失い、それでも生かされた彼は次なる「存在価値」を「復讐」に見いだした。では「復讐」を終えたら?
 
 
 
 
とにかくにまず彼は復讐のために”生”にしがみつく。殺した熊の毛皮で暖をとり、バッファローの肝臓を食し、馬の死体を寝床にするなど、あらゆる犠牲を払って生命力を回復させる。度重なる困難を乗り越え、ようやく復讐相手のフィッツジェラルドに肉薄することに成功する。すると彼は再び”死”を意識する。
 
 
復讐は神の手中にある。
 
 
劇中のヒューの台詞である。復讐の結果が自分の死であってもそれは神の意向であると考えている。自分は死んでも構わないというスタンスだ。復讐が完了すれば彼は再び「存在価値」を失う。だから死んでも構わない。
 

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しかし結論から言うと、彼は死ななかった。フィッツジェラルドと雪山の激闘を繰り広げ、宿敵を瀕死に追いやった。するとそこに、同族以外を問答無用で殺害する先住民たちがやってきてしまった。もはや逃げる術はない。そこでヒューが取った行動は、先住民達にフィッツジェラルドの身体を捧げることであった。先住民達はヒューが瀕死に追いやったフィッツジェラルドの体にもう一度ナイフを突き刺し、息の根を止める。そしてヒューに危害を加えることなく、ゆっくりと横を通り過ぎるのであった。
 
 
 
 
 

全てを失った人間に「存在価値」はあるのか?

ヒュー・グラスは再び生きた。息子を失い、復讐を果たし「存在価値」を失ったにも関わらず、ヒューはまだ生きているのだ。全てを失った彼にまだ「存在価値」があるというのだろうか?
 
 
 
 
 
答えはイエスだ!
なぜなら我々はこの映画で彼の「存在価値」を証明され続けたからである。ヒューは多くの犠牲を払い続け、生き長らえることができた。動物、植物、先住民、そして、フィッツジェラルドを生け贄に捧げ、彼は死から免れた。彼の命を支えているのは犠牲になった自然や人々の命に他ならない。
 
 
我々は彼のサバイバルドラマで、生きることの壮絶な背景を見せられる。生きているという事実がどれだけの犠牲の上に成り立っているか。生きることは自然を犠牲にし、いまある平和は先人たちの命を犠牲によって成り立っているということ。
 
 

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アメリカの先住民は、まさに平和にために犠牲になった者の象徴である。
 
 
イニャリトゥは、この映画を通じて「存在価値」は「生きてる事実」の中に含有されるということを伝えたかったのではないだろうか。つまり、いま我々がヒュー・グラスのように「生きてる」その事実の中には、血となり肉となってくれた自然、そして平和のために犠牲となってくれた先人たちの生命を犠牲にしていることが前提にあり、それこそが「存在価値」として我々の人生に君臨しているということである。
 
 
 
 

『レヴェナント』は『バードマン』への見事なアンサーだ!

『バードマン』では「存在価値」を外在化することしかできない現代人を批判的に描いた。では何に「存在価値」を見いだせばいいのか?今作『レヴェナント』はその疑問の華麗な答えである。
 
 
 
「存在価値」を外在化させるのではなく、「存在価値」を内在化させるのだ。
 
 
 
「なぜ自分は生きているのか?」ではなく「なぜ自分は生かされているのか?」を考える。自分本位な考えから抜け出すことを薦めている映画であるのではないだろうか。
 
 
ディカプリオはオスカーを獲得したときのスピーチで現在も進行している環境問題に再び警鐘を鳴らした。ディカプリオはこの映画を通じて、我々は「生きている」のではなく、 人間以外の壮大な地球環境によって「生かされている」ことを強調させたかったのではないだろうか。
 
 
 
我々は自分の「存在価値」を、「今生きていること」が様々な生命の犠牲を内包しているという点に見いだすことができるのだ!!!
 
 
 
だからブログのPV数やツイッターのリツイート数、Facebookの友達の数で自分の価値を決めるというのは如何に愚かな生き方かということを思い知らされるぜ!
 

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バズる記事とか言ってるやつはクソだ!!!!!!!